|
初代リンカンシャー侯爵、チャールズ・ロバート・ウィン=キャリントン(, 、1843年5月16日 - 1928年6月13日)は、イギリスの貴族、政治家(自由党所属)。 1868年に「キャリントン男爵」を相続し、1895年に「キャリントン伯爵」へ、1912年に「リンカンシャー侯爵」へそれぞれ叙された。 == 経歴 == ロンドンのホワイトホールで、第2代キャリントン男爵の長男として生まれた〔 〕。母親のシャーロッテ・オーグスタ・ドラモンド=ウィラビーは第22代の娘で、キャリントンの二人目の妻であった〔〔〔〔。なお出生時の姓は「」であったが、勅許を得て1880年に「」へ、さらに1896年に「」へ改めている〔〔〔〔。 イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、1864年に学士号(B.A.)を取得。1879年に母親が死去したため、世襲職である式部卿(; 式部長官)の一人となる〔〔〔〔式部卿を世襲する人物は複数人いるが、儀式において実際に活動するのは一名である。リンカンシャーは1910年から1928年まで式部卿職を務めた。〕。 1865年から襲爵により貴族院へ移る1868年までバッキンガムシャー州ハイ・ウィカム選挙区選出の自由党所属庶民院議員。 ウィリアム・グラッドストンの下で1881年から1885年まで近衛兵のを務め〔〔〔〔、また1881年には枢密顧問官に列せられた。 1885年にニューサウスウェールズ植民地総督に任命され、1890年までシドニーへ赴任〔。帰国後、グラッドストンと第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの下で1892年から1895年まで王室侍従長(; 宮内長官)を務めた。1895年に「カウンティ・オヴ・バッキンガムにおけるチェッピング・ウィカムのウェンドーヴァー子爵()」および「キャリントン伯爵()」に叙された。 1905年に自由党が政権を奪還すると、サー・ヘンリー・キャンベル=バナマンやハーバート・ヘンリー・アスキスの下で1905年から1911年まで()として、1911年から1912年まで王璽尚書として入閣した。この間1906年にガーター勲章を授けられ〔〔〔〔、1912年の退任後に「リンカンシャー侯爵()」に叙された。 1928年6月13日にバッキンガムシャー州ハイ・ウィカムのドウズ・ヒル・ハウスで死去〔。唯一の男子であったウェンドーヴァー子爵チャールズ・ロバート・ウィン=キャリントンが第一次世界大戦で戦死していたため、キャリントン伯爵位とリンカンシャー侯爵位は断絶し、キャリントン男爵位のみが弟のによって相続された〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・ウィン=キャリントン (初代リンカンシャー侯爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|